かなしみ通信
2月の東京宝塚劇場の長めの休演期間は体にずっしりこたえる・・・
その間活力のチャージが一切できないわけで、インフルエンザの猛威から身をかくし、地蔵でも乗ってるのかと思うほど重い肩をさすりさすりしながら、地べたをはいずるような心持で確定申告の準備をしてましたとも。
たまりたまった伝票を整理しながら、観劇代はもはや整体やマッサージに行く費用と同じ、メンテナンスのための必要経費なので、「医療費」とか「福利厚生」に仕分けしたほうがいい、と思った。
久しぶりの東宝に行って、赤い座席に身を沈めるともはや安心する。
やっぱり劇場に行くことそのものが、治療ですよ・・・
さてグランドホテルこと、グラホ。
映画がとても好きだったので、楽しみにしていた。
ドイツ一流ホテルに滞在する客達のドラマ。零落した男爵、没落した老いた有名バレリーナ、映画女優希望の美人、破産宣告されている実業家等々が織り成す人間模様。
うん、さすが宝塚だ、と思った。
映画の理不尽さを美しく優しく脚色し、希望を与える。
・実家
宝塚では通常、盆やせりと呼ばれる上下や回転する舞台装置が盛り上がりに華を添える。
グランドホテルは、それが全くない。全て、平面での勝負。
宝塚御用達の銀橋すら、劇の終わりに挨拶でわたるだけという徹底ぶり。
その分、群舞が背景となり、舞台転換の衝立となり、語り手となる。
舞台の上には、四角の升目が引いてあって、組子はそれぞれ決められた自分の升目の上で踊る。びっちり同じ動きをしつつ、フォーメーションが前後左右に変わるから、あれは大変だー。
自分の升目を組子はおのおの「家」と呼んでいるらしいが、緻密に編まれたダンスは一見の価値有り。迫力。
・たまきち男爵の背中
落ち着きと包容力のある大人の男、たまきちばっちりでしたね。
珠城さんの品のよさや体格にとても似合っていた。
で、エロイ。フラムシェンの腕をなでながら誘う指つきの美しさ、エロさ!
男爵ゆえの、非情になりきれない育ちのよさ、それに足をとられるかなしみがよく出ていた。
歌はがんばれ。
・ちゃぴ グルーシンスカヤ
迫力はさすが。ただ売れなくなったバレリーナの絶望が伝わりにくかった。
映画ではグレタガルボが旬を過ぎて凋落したプリマを、倦怠感と哀愁をもって演じていたが、ちゃぴグルーシンスカヤは、どちらかというとコミカルだった。
子役からスター街道を歩いてきてちやほやされてきた少女がそのままセレブになってしまった感じ。
その分、男爵と恋に落ちるシーンは無邪気な喜びにあふれてて素晴らしかった。
原作では男爵の孤独と老ダンサーの孤独が呼応しあい、惹かれあったのだな、ということがわかるのだが、宝塚版では一目ぼれの要素が強くみえる。
・オットー美弥 るりか
美弥 ちゃんオットーを見ると、憐憫、という言葉が浮かぶ。
人の心のやらかい部分をぎゅーっとつかんでくる。
ただひたすら真面目で実直で、不器用で、少しおろかで、それゆえにつけこまれて、哀しくて。
いるよな、こういう巷の小さな小さな聖人みたいな人。
前にコンサバでタソが「ただ優しい人を演じたい。弱いから優しい、とかじゃなくて、ただひたすら優しいを演じたい」と言っていたけれど、オットーはそんな感じ。
びくっとするところ、胸をかばうようにぎゅっとつかむ仕草、フラムシェンと生まれてはじめてのダンスを踊って彼女の足を踏まないかと、ほとんど鼻を地面にくっつけるようにして前屈しまくって踊る姿、男爵と踊る喜びのダンス。
どれもこれもオットーそのもの。素晴らしい美弥ちゃんの、オットー。
映画では、男爵はオットーを理解しているが、オットーは男爵を理解していない。
男爵が金に困り、犯罪者で、人生に疲れていて、途方もなく孤独であることを理解していない。友情というより、男爵の親切の粋を出ないように思う。
だけど、宝塚では、オットーも男爵を助ける。
男爵は自分の弱みを、オットーにさらけ出す。金がない、と。
そしてオットーは金を差し出す。失礼にならないように、細心の配慮をもって。
あの時、男爵とオットーは確かに関わり、友人だったと思う。
フラムシェン 早乙女わかば
いやー、よかった!
わかばちゃんの陽性の雰囲気にとてもよくあってる。
ちょっとおバカで抜けてて、だけどあったかくて芯はしっかりしてるお嬢さん。
はじけてるから、パンチラしても太もも見せても、変ないやらしさがない。
エロ社長(華形みつる)さんを誘う?ところ・・・ちらちらと足を見せるところ、うまい。
誘ってる感と無邪気感、わかってる感と探っている感が絶妙。
みつるさんも、さすがのどエロ社長っぶり・・・ごくっと生唾飲む音とか聞こえてきそうだもん。
「やらせろ」とかはっきり言われるほうがまだましで、「名前を呼んでくれ」だの「踊ってくれ」だの、あれはひくわーーー。あれは女に嫌われるわーー。
映画だと少しコミカルさがあったけど、みつるさんの演技はひたすら下卑たエロエロであれはすみれコードぎりぎりなのでは・・・ さすが
・チャールストン
男爵とオットー、背景の組子達が踊りまくるシーン、圧巻。
let’sダンシングでは、是非チャールストンを!! ※チャールストンステップ 1920年代に流行ったダンスステップ
簡単そうに見えて全然できません!!
っていうか、足を交差させたら、骨盤がバキッて音しましたよ・・・
・男爵とグルーシンスカヤのダンス。
たまきち男爵が、劇中で、ちゃぴグルーシンスカヤをリフトする。
静止したリフト。あまりにも神秘的で、圧倒的なパ・ド・ドゥ。鳥肌が立つ。
こういうシーンは ベースにクラシックバレエがある宝塚だからこそ。
恋を歌と台詞で語るのがミュージカルだけれど、あのリフトは沈黙で全てを語ってました。哀しくなるほど美しいシーン (舞台写真はないのか?!!)
・宝塚
映画では、男爵の不条理な死は意味づけはされない。ただ終わる。
死を知らないグルーシンスカヤが喜びにあふれてホテルからチェックアウトし、すっかり紳士となったオットーも立ち去り、また曰くありげな客がチェックインしてくる。
あくまで立ち止まらず変わり続けるホテルが主人公で、三人称の文体で書かれている小説のよう。そのビターな無常さの後味もいい。
宝塚では、死は死神からの愛、だ。
黒鳥のごとく死に扮したグルーシンスカヤが、男爵に口づけする。
そして、夢のなかで愛が成就する。
幕が降りた後、死んだ男爵は真っ白な衣装に身を包み、白鳥に変わったグルーシンスカヤと、喜びのダンスを踊る。
縦横無尽に「グランドホテル」を使い、跳ね回りながら。
この舞台を見て、宿命を考えた。
実は、何も変わっていないのだ。
男爵はグルーシンスカヤやフラムシェンに出会ってなくても速かれ遅かれ同じ目にあったと思う。
グルーシンスカヤも同じだ。踊れなくなり、絶望へ戻る。
オットーは映画と違い、ホテルを去るときも来たときと同じやつれた元のままの風袋になっている。オットーは、死ぬはずだ。フラムシェンはまた一人になるのだと思う。
ただ違うのは、「ライフ」に触れたこと。
何も変わらなくても、喜びに触れること。それが「ライフ」だ。
スローライフからの視点で読み解くかなしみ
土日がお仕事なので